千住博の美術の授業 絵を描く悦び

読みました。

千住博の美術の授業 絵を描く悦び (光文社新書)

千住博の美術の授業 絵を描く悦び (光文社新書)

学生時代に出会いたかった一冊です。
石膏デッサンに明け暮れた日々を思い出します。千住さんのような先生が入れば、もっと違ったデッサンができたのではと残念に思ってしまいました。

以下、心に響いた言葉。

結局、個性とは、消そうとしても浮かび上がってくるもののこと。にじみ出てくるもののこと。自分の中から「癖っぽさ」や「あく」、「性格的なこだわり」とか「思い込み」、これをどうやって取り除いていくか。そのあと、ここには「個性」美しく残ります。

普通のものを描いているときに一番その人らしさがでる。個性というのは、隠しても隠しても出てしまうもの。

普通に描いて「個性」が出ている。そして世界に必ず受け入れられる。かんたんなことなのです。

では、どうすれば人の足を止めることができる作品を制作できるのか。
自分の200%、300%の力で、「私の絵の前に立ち止まってくれ」という気持ちを見る人に伝えないないとだめなのです。

一枚の絵はときとして人の命を救います。(中略)
そんな一枚が今あなたの描いた一枚かもしれないのです。

絵は皆のものです。
ただし、描き終わるまでは作者のものです。好きに描けばいい。しかし、描き終わったら絵には使命が生まれるのです。それが芸術というものです。

ものをつくるときには、クリエーション(創造)よりもっと大切なことがある。それが、もう一つの「そうぞう」、つまり「イマジネーション(想像)」です。

イマジネーションはすべてを超えることができるのですから。説明なしに伝わるもの。これが「すべて」です。

いわば滝を描くときは私は滝になっているのです。

人間は皆同じです。誰でも楽しければ笑うのです。

すべてを超えて、私たちは同じ人間だということを伝えているのです。

モチーフとの出会いが、その作家を成長させます。
モチーフは自分で得たものではなくて、「与えられたもの」だと思うのです。
こんなモチーフを与えてもらって、出合えて本当に芸術の神様に感謝します、という気持ちでもあります。

新しいモチーフ。何気なく目の前に存在していた中にすでに答えはあったのです。世の中はモチーフとテーマに満ちているのです。問題は求める心、ということになります。

「探す」という目つき、これがどうも一流の画家たちに共通した目つきのようです。
獲物を追うハンターの目に似ています。
私はこういうものを描きたい、こういう世界を構築したい、その思いを煮詰めることです。そして外に出る。

取材とは探すということ。これが絵描きの目つきを育てます。

写真は片目をつぶって撮影します。情報量としてスケッチする半分の量しか人の体にはいってきていないと思います。

自信とは徹底にやったということです。
「これ以上できないのだから仕方がないじゃないか」という気持ちです。

石膏デッサン、それは自分との戦いです。ごこどこまで見ることができたか、という自分の観察能力の限界を押し広げてゆくことです。
石膏デッサンをやると個性がつぶれるのでは、という声も耳にしますが、それはあり得ません。画家が目の前のものを正しく描けなくて、いったい、心の中の複雑かつ、いまだ形にすらなっていないイメージをどうやって描けるというのでしょう。白一色の石膏が描けなくて、どうやってまったく違う色相を画面の中にきちんと並べることができるのでしょう。

芸術の神様は女性なのだそうです。女の神様にかわいがられるような生き方をしなくてはならない、ということのようです。

強靱な精神力がなくては、確かに何万人もの人々をひきつけるような作品はできるわけがないのですね。